権利擁護の世界と後見利用

 この文章は、全日本育成会「権利擁護プロジェクト」のために執筆した文章です。いまのわたしから見ると上から目線のあまり良い文章とは言えないと思いますが、考え方の骨格は変わりないので、ここへアップしておきます。

 出典:社会福祉法人全日本手をつなぐ育成会「知的障害者の権利擁護システム構築に関する研究事業報告書 レポート2」3-7p(2007) 

 佐藤彰一

 


 

1 権利擁護とはなにか

 自分の力では、自分の思いや考えを他人に充分に伝えることができない人は、たくさんいる。程度の差を問わないのであれば、世の中のひとはすべてがそうであるといってもいい。しかし、自分の思いや考えを人に伝えられないがために、自分の権利や利益を故なく奪われたり、人間らしい生活ができない環境に置かれたりするとすれば、社会の中ですべての人が「ともに生きている」という言葉が空しくなる。強い人間だけが、人間としての生活を享受できる世界が、人々の目指す世界ではないことはいうまでもないが、同時にまた、弱い人間を庇護しつつ強い人間が主役として社会を担うという社会像も、現代社会のありようとしては支持を失いつつある。弱い人間も強い人間も、ともに一個の人間であり、社会の主役として、それぞれの持てる力を発揮しながら、おのおのの生を実現している、こうした社会の実現が求められているのである。

 そのためには声を上げられない人々の一人ひとりについて、その生活全般におよぶ「代弁」活動が必要である。それが権利擁護である。「代弁」と書いたが、その趣旨は他人が代って主張することに力点があるのではなく(そうであれば強い人間が弱い人間を庇護していることでしかない)、本人が主張できるようにする、これが機軸になるべきである。そういう意味では代弁よりも本人支援が、ここにいう「代弁」の意味である。知的障害者の権利擁護はどうしても代って主張する意味での代弁的活動が前面に出やすくなるが、本人の意思・意向を尊重することはもちろん、その持てる能力に充分に配慮した代弁活動が要求されることは、もはや異論を見ないところである。

 

2 権利擁護の広がり

 権利擁護を生活全般に及ぶ代弁活動だと位置づけると、権利擁護と生活支援の境界は不分明になる。なんらかの行政目的(たとえば補助金給付や予算配分)をもった言葉としては、それでは定義不十分かもしれないが、権利擁護の世界をありのままに理解するためには、むしろ生活支援と境のない、かなりの部分が重複する言葉として理解したほうが適切である。

ここでは、誰にでもわかる平凡な日常生活世界の場面で描いておこう。

1)衣食住(生存の場)

 どこに住むのか、誰と住むのか、入所施設なのか、グループホームなのか、在宅なのか、こうした選択の問題は、自己決定の主要なテーマであるが、一人ではなかなかできない。何を食べるのか。住み込みの就労先で、ドッグフードや残飯を毎日食べさせられている、などということになると、これは虐待の問題に近づくことになる。しかし、入所施設で夕方4時ぐらいに、いっせいに同じ食事を利用者全員が食べる(食べさせられる)、それを食べないともう後はなにも食べるものがない、この問題になると生活支援とシームレスになる。同じ下着を一週間ぐらい代えてもらえない、これもたかが衣類の問題とは言えない。人間らしく扱われているかどうか、が問われる。

 これらは権利擁護の活動が期待される場面である。しかし同時に生活支援の場面でもある。虐待問題を発見し、救出と是正を求めていく活動が権利擁護と意識されやすいが、障害当事者の衣食住に関する生活の不満を受け止め、改善を行いやすくする工夫、住居や家具の設計や構造を含めて暮らしやすいアイデアを生み出す努力も、同様に権利擁護活動なのである。

 

2)金と健康と性

 生活・人生をより充実したものにしたい、そのための支援も権利擁護といえる。

預金や不動産といった財産管理問題も重要であるが、日々のお金の使い方、つまり小遣い帳レベルの金銭管理も日常生活を充実させるためには大切な問題であるし、充分うまく小遣い管理が出来ない人には、支援が必要である。まったくの放任で悪徳事業者の餌食になってしまう、といった場合は法の専門家や消費生活センターの登場が期待されるが、こうした対事業者への事件処理とは異なる日常的金銭管理は、また別の形の支援が必要である。失敗を恐れて、親をはじめとする周りの人間がすべて金銭のすべてを取り仕切ってしまうようでは、本人の生活の充実感、達成感が損なわれる。

 健康管理についても同じである。タバコを吸うかどうか。偏食・過食のコントロール。これは生活支援であるが、同時に自律をめぐる権利擁護の問題でもある。日常的な医療サービスを受ける場合には医療の専門家の協力を得た支援が必要となるがこれも生活支援と権利擁護の境は明確にならない。障害者に対する医療サービスの拒否の場面だけでなく、本人が嫌がる場合の医療提供の場合を想定すればよい。

 性的被害者になる、加害者になる、そのどちらの場合も権利擁護の活動領域である。そうした事件性のないのもの、つまり恋愛や結婚といった異性との付き合いは、これも自律と支援の問題をはらう権利擁護の問題である。

 

3)働く・学ぶ・参加する

 就労の場面での権利擁護は、もう周知のことである。学びも学校教育の場面はもちろん、学校外の場面での活動、社会的な学習の場というものが障害のあるひとにも提供されていてしかるべきであり、そうした活動を支援するのは権利擁護の側面をもつ。社会参加と一口にいっても、遊びに参加する、旅行などの行事に参加する、政治に参加するなどなど多くの形態があるが、そのいたるところでバリアーがある。公共施設・レストラン・プールの利用はもちろん、旅行に行くか行かないか、自律をめぐる問題をはらんでいる。

 

3 自己決定再考

自立的な社会生活とは、自分のことは自分で判断する、つまり自己決定の機会が確保されている生活である。しかし、知的障害者の場合、この判断が充分にできないのであるから、自己決定への配慮といってもまやかしではないか、あるいは無理ではないか、こうした指摘が当然にありうる。たしかに自己決定といっても、当事者本人がなにをどう決定するよう求められているのか理解できない場合もあるだろうし、そうした場合に決定を求めてもそれは決定の押し付け以外のなにものでもない。

ところで、近代的な(かつ通俗的な)自己決定の理解では、自己決定とは、誰からも影響されない「自己」が、自己の責任において単独で、ある瞬間に、あることがらに対して決断をすることだと理解されがちである(これを自己決定のイベントモデルと呼ぶ)。契約書に署名してハンコを押すときに決定が行われ、決定内容はその契約書に書かれていることである。そうしたイメージである。

しかし、障害のあるないに関わらず、人は誰からの影響も受けないでまったく単独に自己決定できるものではない。決定対象と決定の是非は、常に他人(周りの人)との関係の中で確認され、検証されながら行われる。そこには、自分の決定に関わる多くの他人がいて、多くの情報が提供されている。こうした実相に着目した場合には、自己決定は一人で行うものではなく、しかも突然に行われるものでもなく、他者との関係の積み重ねの中で行われるものだと理解される(これを自己決定のプロセルモデルと呼ぶ)。

知的障害者がまわりの支援を受けながら自己決定を行うことは、イベントモデルからみれば矛盾した事態であり、知的障害者の世界独特の自己決定論に見えるが、プロセスモデルからみれば、これは誰もが日常的に行っている自己決定の実相(過程的な共同決定)が、わかりやすく描かれる風景であるにすぎない。こうした自己決定のありようを「支援された自律」と表現する人もいる。

 問題は、「支援された自律」は、支援者の対応に影響されるので、支援者による決定の押し付けの隠れ蓑、いわば「自律なき保護」となる可能性があることである。他方で、そうした事態への恐れから支援を抑制することで、十分な支援のないままに決定による結果責任を取らされる「支援なき自己責任」となる可能性もあることである。この「自律なき保護」と「支援なき自己責任」の両翼の中で「支援された自律」は、試行錯誤を繰り返すことになる。いわば「せめぎあい」があるのである。障害者の自律については、権利擁護と権利侵害は表裏一体であることに、関係者は自覚的である必要がある。

 

4 後見と権利擁護

1)両刃の刃の自覚が必要

 後見制度は、権利擁護の重要なツールであると同時に、権利侵害の温床にもなる。後見人による財産侵奪事例がマスメディアに登場することも多い。選挙権の喪失問題は重大な制度改革テーマとして意識されている。しかし、それに加えて、成年後見制度は、当事者の法的な行為能力を基本的に制約することで保護を図る制度であることも、念頭に置かれておくべきである。したがって、後見人に就任する人は、それが親であれ第三者であれ、専門家であれ市民であれ、前述の権利擁護と権利侵害の緊張関係の中にあることを、よりいっそう自覚してその職務につくべきである。

2)障害者後見の特質への配慮した制度設計を

障害者後見には、次のような特質がある。① 後見期間が長くかかる。② 本人に資力がない(場合が多い)。③ 本人のニーズを掴みにくい(自己決定支援の難しさ)

 このような特質に配慮した場合、個々の関係者に前述の両刃の刃の自覚が必要であることは当然であるが、これに加えた制度的な手当てとして、①’ 後見人の引継ぎ問題への対応、②’ 経費・報酬問題への対応、③’ 複数の関係者の関与、以上の要素が必須である。

 個人後見の場合であれば、できるだけ多くの人が後見人に関わることが好ましい。複数・共同後見を試みる。後見監督人の必置を考える。個人後見人を支援するためのバックアップ組織の整備をする、などなどである。その組織が法人後見あるいは法人後見監督人を受任することも考えられよう。いずれの場合もしかし、後見業務が、本人の自律の点から見て、権利擁護と権利侵害の緊張関係にあることを自覚した上で、設計・運用されることが肝要であり、支援者にとって便宜であるとか、安く済むといった、障害当事者の立場を離れた「周りの事情」で設計・運用されるべきではない。

3)後見の適切利用を

 知的障害者の親の会は、成年後見については、その制度発足である平成12年から今日まで、支援費制度の導入、自立支援法の施行と、変革の節目で成年後見制度の勉強会を重ねてきている。成年後見制度の利用が増えないのは、制度の存在が知られていないからだという声もあるが、少なくとも知的障害者の世界について言えば、そうではない。むしろ知的障害者とその家族のニーズにフィットした制度設計が行われていないことへの不安・心配があるというべきである。どのように制度設計・変革をするかがむしろ課題といえよう。

 しかし、制度それ自体の存在は知っていても、制度の中身が正確に理解されているかどうかは別問題である。日常的金銭管理や友人付き合いの是正を後見人に期待する親族もいる。後見制度への「期待と現実」の齟齬があるのである。権利擁護の実相は、前述のように日常的な生活支援とシームレスにつながるのであるから、こうした期待を親が持つのはまったく不当だとはいえないが、制度としては別物である。また、利用に当たって後見類型に過度に傾斜していることも、障害者の意思能力の実相が関係者に十分に理解されていない側面がある。後見を利用するかしないか、利用するとしてどのような形なのか、個別事例に相応しい制度理解が必要である。

 また、制度の現実と期待の齟齬をもっとも分かりやすく示すものが、専門家後見人に対する期待と失望であろう。いわく「高い報酬をとって、なにもしてくれない」という声がそれである。これはしかし、弁護士や司法書士、あるいは社会福祉士などの専門家の専門性に対する誤解である。日常的な生活支援の担い手は、こうした専門家ではない。紛争性のない後見事例で弁護士後見人を選任し、日常生活支援を期待するのは、むしろミスマッチである。もちろん、専門家にお願いしたほうがよい事例もある。しかしそうでない事例もある。この点でも適切な制度利用を考える必要がある。

4)複合的な資源構築

 権利擁護は、生活支援とシームレスにつながり、あらゆる場面で期待される活動である。繰り返しになるが、後見制度は、権利擁護のひとつのツールでしかない。しかも、それ単独で利用してもうまく機能しない。社会福祉サービスや障害者の団体・機関から離れて在宅で親とずっと暮らしてきた障害当事者に、後見人だけをつけたとしても、本人の生活や人生の質の向上になんらかの寄与があるとは思えない。多様な社会資源の中で障害当事者は生きることが必要だし、また可能である。

 加えて、既存の資源だけでなく、あたらしいツールの開発も必要である。とりわけ後見制度は、裁判所の法制度であって、慎重な手続による明確な権限付与がある反面、重厚長大な側面があることは否めない。これとは別に、職業的に関わるスタッフや家族以外に、障害当事者と関わる人たちが地域に多数いることは、人生を豊かにする。すでに諸外国においては、後見制度自体も財産管理と身上管理に区分けされた複合的なものがみられるが、後見以外にもそうした身近な、友人的かかわりを担う人々を養成・制度化している例がみられる。コミュニティフレンドあるいはコンタクトパーソンがそれである。こうした複合的代替的制度設計もこれから期待されるところである。

 また財産管理や安全保障という側面からは、知的障害者とその家族が使いやすい信託や保険の開発が急務である。

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