二項対立から脱却する
言い尽くされたことであるが、あれか、これか、の選択の中でものを考える思考方式は、視野が狭すぎる。しかし、実際に日常生活の場面では、そうした選択的思考を採ってしまうことが多い。こまごまとした日々の行動選択や意思決定に、ひとつひとつ細かな状況分析や論理的判断を伴う思考は、煩雑に過ぎる。昼飯ひとつ食うのにあまたある食堂の中の、どこで何を食べるのが最適かなんて分析を始めていては日が暮れてしまう。
善人と悪人。健常者と障害者、幸せと不幸。正義と悪、差別と平等、これらは、すべてレッテルであるが、このレッテルを使わないで判断をすると意思決定が非常に遅くなったり、コミュニケーションがギクシャクすることがある。障害者領域にもある。たとえば、施設か地域か、養護学校か普通学級か、などがそうである。
こうしたレッテル思考は、政治の領域ではより多いように見える。古い話だが保守か革新という選別があったり、右翼か左翼か、小さな政府か大きな政府か、市場派は規制派か、近くでは郵政改革に賛成派か反対派か、などもそうであろう。勧善懲悪も分かりやすいが、悪玉にされた人はたまらない。
田村治朗さんが書いた「交渉の戦略」ダイヤモンド社(2004)は、交渉論の本としてはなかなか出来のいい本だと思っているが、この本の冒頭では、先に述べたような思考方式を二分法と呼んでいる。
二分法とは、田村氏によれば、世の中のものを対立する二つのものに無理やり分類して、そのどちらかの選択を迫るものである。
田村氏は、二分法の例をいくつかあげているが、魔女裁判があがっている。これは、二分法の問題点を理解するのに、分かりやすい。
「あなたは魔女ですか、違いますか」という二分法の問いで質問が始まり、イエスと答えれば、処刑。ノーと答えれば、拷問。それでもずっとノーと答えて、否認を貫き通したら「ここまで拷問に絶えられるのは魔女に違いない」ということでやっぱり処刑。これでは被告人はたまらない。
こうしたむちゃくちゃな論理が、適正な手続を保障したといわれつつ実行され、幾多の命が奪われたのである。しかもものの本によれば、当時の人々は、本当に魔女の存在を信じていた節がある。誰も何もおかしいとは思っていなかったのである。手続保障とか真実とかいう言葉は、貴重であると同時に恐ろしい面を持っている。これに二分法が加わると、立派に「理路整然と間違う」構造が出来上がる。
どうするか。田村さんの本にはいろいろ対策が書かれているが、それは同書を読んでいただくことにして、私なりの対策としては、判断しない勇気をもつことかなあと思う。「分からない」と答える勇気である。これがなかなか最近は難しい。自己決定だ、自己責任だといわれれて「決定をせまる」議論は世の中に多いが、決定しなくてもいいよ、なんて議論はあまり多くない。そもそも二分法に問題が立てられているかどうかもよく分からないとき、なんかおかしいなあと思っている、そんな状態で結論を迫られることが多いのである。
これが一番、困るのである。発達障害の人がパニックになるのは、こういうときかもしれない。当然だ。それは決定を急がせる周りが悪いのだ。私も彼らに学んで、ゆっくりものを考える勇気を持ちたいと思い始めている。
というより、私も頭の回転が遅いので、ゆっくりにしかものを考えられないのだ。
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