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2006/07/15

Garrow's Lawyers 7

 (6)の続きです。
 職業的役割を意識するとしても、以前もにも書いたようにこの事件では、党派性と中立性、専門性と人間性の対立があります。この言葉の意味については、このシリーズの第3回に解説をしておきましたが、最期にスコシ補足をしておきたいと思います。

 党派性と中立性には、日本では言葉の意味にバリエーションがあります。
法律家といえば、弁護士のほかに裁判官を想定する人は多いと思いますが、弁護士が依頼者の代理人であるのに対して裁判官は、原告・被告のどちらの代弁をするわけでもなく、中立的な立場から法使用をする専門家です。このような意味での弁護士と裁判官の役割を対比して、一方を党派的、他方を中立的と呼ぶ論考がわが国にはあります。
 たとえば、新堂幸司教授は、リーガル・サーヴィスに二つのタイプがあると主張され、代理人的活動を党派的サービス、裁判官・調停者的活動を中立的サービスと呼んでおられます。新堂幸司「民事訴訟制度の役割(民事訴訟法研究第1巻)」有斐閣 1993)233p。他ににも小島教授、遠藤直哉弁護士など、多くの関係者がこの用語法を使用しています。

 こうした用語法は、いわゆるADR論議のさきがけとして、中立調整型弁護士活動を日本に入れる理論的基礎作りとして主張されたものでして、私がGarrow の事件で使用している用語法とは異なります。

 法曹倫理の世界では、違う用語法があります。加藤新太郎裁判官の弁護士役割論(弘文堂1992)5p以下では、次のように説明しています。

 弁護士は、「基本的人権を擁護し、社会正義を実現することを使命」(弁護士法1条1項)としつつ、「当事者その他、関係人の依頼等によって法律事務を行うことを職務とする」(同3条1項)。ここに弁護士の「公益的性格」と「当事者の代理人としての役割」が現れている。
 この二つの矛盾・対立する役割規程は世界的である。アメリカ弁護士職務基本規定(1983)の前文、弁護士は依頼者の代理人であると同時に、司法制度の担い手」であると規定し、ドイツでも、弁護士は独立の司法機関(弁護士法1条)であり「自由な職務を行い」同2条1項、「あらゆる法律事件に関して、独立の助言人および代理人となる資格を有する」同3条1項とされている。

 新堂教授らの議論対象は、法律家の第三者的関与を視野にいれた場合の話であって、弁護士・依頼者間のあいだでの緊張関係を直接の対象とはしていません。これに対して、代理人活動の中に、公益的性格(中立的役割)と代理人的役割(党派的役割)の緊張関係があることを意識したものが加藤裁判官の指摘する用語法です。私もこちらを念頭において使っています。
 
 さて、この意味で中立性と党派性を理解した場合、Garrowの二人の弁護士は、党派性に軸足を置いて専門家としての職業倫理を徹底したと理解できます。それゆえに、すごい弁護士だといいうるのです。なかなかこれはできることではありません。二人の弁護士が、ものすごいストレスに晒されていたと後に語っていることは当然です。役割選好の過程ででてくる人間性を意識的に切り捨てている、そうした職業的な選好を行っているからです。また最後にAlmani がGarrow の隠れ場所を警察に語っているのは、逆に公益性を表に出したということでしょう。これも職業倫理を徹底している姿です。どちらにしても職業倫理の中で動いています(もうこの件はいやだから、関わりたくない、などという情けない対応はとっていません)。

 日本の弁護士は、「依頼者の利益を守るべきである」と総論的には同じ主張を保持していますが、この事件の二人の弁護士のように徹底的に職業倫理を守れる人が、何人いるのかと問われると、答えに窮します。党派性が中途半端であることについては、接見中の被告人との会話を、被告人に不利が及ぶことが分かっていて、法廷でべらべら証言してしまう弁護士がいるぐらいです(大阪高裁判決平成4年3月12日判例タイムズ802号233p)。つい最近の、秋田県の能代の弁護士さんたちが、接見中の被疑者の話を記者会見でべらべら公表したことも職業倫理的な詰めが甘いといいうるのかもしれません。

 でも、職業倫理の党派性と中立性の緊張関係の中で、ごりごりしながら職務を行うことが良いことなのか、という問いかけをしてみると、どうもそうでもないのかと最近思い始めています。

 私は前にウイリアム・サイモンというアメリカの法曹倫理の専門家の見解を勉強したことがありますが、彼は、職業倫理よりも人間性を強調します(佐藤彰一「サイモンの弁護士論について」井上治典他編『現代調停の技法』判例タイムズ社(1999)505-512p)。彼は、専門的な職業判断を機軸にしてモノを考えるからアメリカ法曹の行動はおかしくなると主張しているのです。なぜなら、党派的であれ中立的であれ、専門的「でしかない」判断は、生きた生身の人間に対する配慮が欠けるからです。棚瀬教授もかつて、専門的な職業倫理の主張が、法に対する没倫理的な態度をもたらすことに警笛を鳴らしています(棚瀬孝雄「弁護士倫理の言説分析 1-4」法律時報68巻1号52ー61p、2号47-56p、3号72-76p、4号55-63p(1996年))。

 この見方から、Garrow を再考してみますと、レークプレサント事件の一般社会の反応は、あまりに党派的であったから二人の弁護士に非難を向けたですが、それは中立性を守れという意味を超えていて、行方不明者の不開示が人間道徳に反していて、職業倫理それ自体が非難のまとであったというべきでしょう。当時の法律家達は裁判所も懲戒当局も二人の行動を職業倫理上の行動として擁護していたのです。それに対する一般社会の反応は、「人間としてはとうていできないことも、弁護士としてなら平気でできてしまうのか」という中村治朗裁判官の問いかけが、中心を言い当てています。

 しかし人間性と専門性の対置を、党派性と中立性の対置に置き換えることから、職業的専門家判断を捨てることを要求することは言いすぎでしょう。それでは、逆に社会の期待を却って裏切ることにもなりましょう。ここで我々は一種の隘路にたつことになります。

 パーソナリティ体系といい、準拠枠といい、さまざまな期待の調整枠組みは、このような隘路を解消するためのものですが、そこにはブラックボックス的な要素があることは否定できないまでも、もう少しその構造を明らかにしたいものです。

 この点、和田仁孝教授が、中立性と党派性は対立するものではないと語っていることが興味を引きます。和田仁孝「弁護士役割の構造と転換--中立性と党派性の意義転換のなかで--」和田仁孝・佐藤彰一編「弁護士活動を問い直す」商事法務(2004)1-15p。

 和田さんは、既存の弁護士倫理が、職業倫理だけの専門的判断枠組みの中で議論がとどまっていたのは、実際の微妙な紛争処理が弁護士以外のところで解決されていたからだと説いています。
 「紛争当事者は、弁護士や法システムに法専門的な問題処理をゆだねる一方で、紛争状況に伴う不安や心理的な傷、社会関係の実質修復に関わる問題については、地域や親族のネットワークによる手当てを期待することができた」
ところが、社会の変化によって「これら法外のシステムによって手当されていたニーズも行き場を失って、次第に法システムや弁護士のもとに持ち込まれるようになってくる」と指摘して、これが弁護士の職業活動の変化を促しているというのです。
 その変化とはなにか、ずぱり法知識を技術的に使用するだけの専門的判断ではすまない、依頼者と社会の双方について、生きた人間への配慮が求められている、ということです。社会と個人のその双方についてQOLへの配慮が求められいるのです。訴訟には勝ったが依頼者の生活は破壊されたでは、話になりません。法の名のもとであれば、何をやってもよい、というものでもないでしょう。訴訟提起や強制執行の利用が不法行為になる場合があることは、広く知られています。

 今日、組織内弁護士の倫理規範が云々されています。基本的には党派性(勤務先企業への忠誠)と中立性(勤務先の違法行為の是正)の間で組織内弁護士の倫理規範が議論され、その緊張関係の中に企業弁護士はあるとされるのですが(そしてそれはまったく正しいのですが)、私には、これも同じ問題をはらんでいるように思います。違法行為是正の判断が、政府・規制機関側の気に入るような判断を意味するのではなく、その弁護士が個人として生きている社会の中で共生している他の人達への人間としての配慮にあると思うのです。これ抜きにしては、通報義務や企業内指摘義務など、ほとんどエクスキューズのための形式論に堕してしまうように思えます。

 こうした観点から、いまいちどGarrowの二人の弁護士の行動を評価すると、彼らは職業倫理には、忠実であったが、Garrow その人のQOLと、同時代の人々への人間として配慮のその双方において、必ずしも忠実ではなかったのではないか、そんな思いを抱いています。もちろんGarrowのために努力したのでしょうが、そのGarrow のためにという思いが、あくまで弁護士の職業倫理の中だけで描いた想いであって、Garrow 自身の現実の思いと違っていたのではないか、そんな感想をいまは抱いています。
 少なくとも私が代理人なら、獣姦をしていたとかの証言は不必要であると考え、させないように思います。やはり後講釈になるのですが。

 日本は、これまで法曹人口があまりにも少なくて、弁護士の役割についての、一般社会の関心が薄かったのではないかと思います。法律家の中でもごく少数の研究志向をもった方が取り扱っていただけでした。しかし、これからどんどん人口が増えて、社会のいたるところ弁護士が顔を出すようになると、好むと好まざるとに関わらず、「この人たちの仕事はなんなのか?」という問いかけが日常化するでしょう。そのときに、アメリカ型の職業倫理一本やり的な進み方、倫理規定の暗記試験を司法試験に組み入れるやりかたをとるのかどうか、そうではない人間性にも目を向けられる倫理論議が可能な空間を残す進み方をいくのか、これから重要な時期にあるように思います。
 ちなみに、法科大学院の必修科目として法曹倫理を取り入れながら、新司法試験の受験科目からははずすといういまの日本のやりかたは、なかなかいいところを見ているやり方であると、私は思っているのですが、どうでしょうか。


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