経験知の没落?
ブログの更新ペースが落ちている。まいろんな事情がある。今回は、その間にいろんな出来事があった。弁護士ネタ、障害者ネタ、個人的な会合ネタなどいろいろだ。その中で書きたいものとそうではないもが当然にある。特に八尾の不幸な事件など、書くべきだとも思うが、ちょっと気が進まない。報道されている内容がどうにも腑に落ちないからである。これは少し時間を置こう。
ところで面白いニュースで、考えさせられたのは、数日前にスーパーから納豆が消えたニュースである。私は世間の動きにどうしようもなく遅れていて、知ら なかった。その後、これはある民放のテレビ番組がきっかけであったと報道され、しかも、その番組で流されたデータが捏造であったことまで報道されている。 テレビ局の社長の責任問題となっている。
この出来事の経緯は、この国に生きる人々の基本的な性格をよく物語っているように思う。いくつか箇条書きにする。
1 テレビ番組に影響されやすい人が多い(私もそうだ)
2 健康ネタは人を動かす。(儲け話と色恋ネタ、そして健康ネタは、どんな場合でも人の注目を引くということである)
上二つはまあいいとして次のことが書きたいことである。
3 自分の経験知を信じない(生活者としての自信喪失)
どれぐらい長い間、この国の人々が納豆を食っていたのか。納豆が健康食品であることは、よく知られている。しかしそれで痩せるという話はあまり聞かな
かった。つまり生活経験としての既存データは各自が持っているのである。ところがテレビでコロリと考えが変わった。もともと健康食品であったからだという
こともあるだろう。自分の経験データよりも科学的なデータと呼ばれるものを信じたのである。
4 生活管理に慣れている
納豆の原材料の大豆はほとんどが輸入品であることはよく知られている。納豆に限らず、いろんなものが我々の手の届かないところで作られ、加工され、売られている。その製品の効能など、個人の知見では理解が及ばない。
そこで管理である。行政や専門家が大丈夫と太鼓判を押し、これがご推薦の品、料理であると言われれば、そうなのだろうと思う社会システムが出来上がって
いる。経験自体がもはや管理の中でしか行われなくなっている。管理が日常になった社会では、管理的データに人々が敏感(あるいは鈍感)になり、自分の経験
だけを信じるなどということができなくなっていることはいわば自然な姿なのである。
5 とすれば、管理データの操作は非常に大きな意味を持つ。統計数字や各種アンケートデータは、操作性があるが、あまりそのことに人々は気がつかない。戦
後犯罪データの読み方もそうであろう。納豆などのデータの操作は、買った人の一生を左右しない。業者の人は別にして、消費者は一応「なーんだ、そうなの
か」と冷笑して済む。
6 しかし姉歯事件のようなデータ偽造は、そうはいかない。個人個人に深刻な傷跡を残す。データの操作は、必ずあると思ったほうがよい。そのことを前提に して、どう個人個人の日常生活の安全を確保していくのか、いまのところ私の考える力を超えているが、まずは自分が見たこと、聞いたこと、そして目の前の人 間と人間のやりとりを重視することからはじめたいと思っている。
| 固定リンク
|
「日記・コラム・つぶやき」カテゴリの記事
- おかげさまで(2010.07.22)
- 幻の酒(2010.07.20)
- 茨城の成年後見とブルーベリー(2010.07.18)
- AAPEPと選挙(2010.07.09)
- 父親の役割?(2010.07.01)


コメント