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2010年10月

2010/10/27

信頼獲得合戦

 障害者福祉の世界では、「軽度の方の権利擁護支援は大変だ」という話は常識に属する。なぜ大変かというと、ご本人の社会性が高く活動力があることと、自己の意思をかなり明確に述べることができるからである。いずれもすばらしいことなのだが、社会性があるために社会の方で「あまいささやき」や「おいしい話」をねたに、さまざまな誘惑をするヒトが多く、簡単に(はたからみて)愚行に引き込まれることがあり、その愚行を自己決定として譲らないからである。

 後見類型より保佐や補助レベルの方の成年後見支援がより手間がかかり大変であると言われる原因は、ここにある。保佐人や補助人、あるいは後見を利用していない場合は、支援者が愚行に走ろうとするご本人を「救おう」とするが、救われるはずの本人がそれを拒否し、しかも加害者と思われるヒトの方を信頼して、救おうとするヒトの意見に耳を貸さない、そんな風景が日本のあちこちで展開されている。場合に寄れば、救おうとするご本人から罵倒され、「権利侵害だ」と糾弾されることもある。昔、悪徳事業者からカネを巻き上げられる傾向のあるご本人を守るために厳しい金銭管理をした施設支援者が、その悪徳業者から自治体の障害福祉課へ「あの施設は権利侵害している」と通報された、という話を聞いたことがあるが、権利擁護のシステムが完備していないとそんなことは、あちこちで繰り返されているに違いない。

なぜ加害者の方が信頼されるのか。
 加害者は、楽しい話、おいしい話、甘いささやき、耳障りのよいコトバを並べ、かつ多くの場合、まめに本人と接触している。そのマメさと話法は、権利擁護支援者の側でも勉強した方がよいと思う。が、実際は、補助人や支援者は、絶望的な報酬の中でおおくの案件をかかえ、しかもご本人にとって辛口の台詞、耳の痛い話を言わざるをえない。これでは勝負にならない。加害者と支援者の間で繰り広げられる信頼獲得合戦は、多くの場合、支援者側の敗退で終わる。そして、目の前で本人が被害の深みにはまっていく様子を、悔しい思いをしながら見せつけられることになる。

 やがて本人がぼろぼろになって被害に気がつき、支援者のところに戻ってくる場合は、まだいい。そのまま路上生活、触法行為、音信不通で行方不明などの状態になってしまっては、権利擁護のコトバが虚しい。権利擁護の世界では、「自己決定による自己責任だ」という突きはなしは、敗者の弁なのである。

 最近、立て続けに軽度障害者の支援の苦労を周辺で聞いたり経験している。先週も今週も、現場や会議で聞いた。それは相談であったり報告であったり、場合に寄れば交渉実践を伴うことにもなるが、その手法は、訴訟実践などよりはるかに複雑で、難しい。アドボカシーの専門性が要求されるところである。
 
 ともあれ、権利擁護のネットワークを広げ、相談支援、生活支援、法的支援の各フィールドで、ご本人の周りに人垣を作っていることが基本になる。そして、その人たちがハラハラドキドキしながら、愚行を見守り、ときには介入し、ときには突き放し、ときには加害者と交渉し、ときにはご本人とケンカもしながら、人垣で支援をしていく。一人ではとてもできない活動である。すごいアドボカシー実践者になると、加害者を支援者にしてしまう。見事な人が実際にいる。

 このような活動をむかし「せめぎ合い」と呼んだことがあるが、あまり良いコトバではないなあと最近では思っている。歌舞伎型支援というコトバで最近では説明しているが、そんなことをブログに書いても「?」と思う人の方が多いだろう。まだ目の前で展開されているすばらしい活動や苦労を表現するコトバを見いだせていない。が、コトバがないだけで、そのような活動は確実にある。

 そのことを人々に伝えたい。まだまだ権利擁護で語らなければなんないことは多い。そして、その経験は私の人生をとても深いものにしてくれているように思う。感謝すべきである。が、ちと疲れている。

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2010/10/25

民訴判例百選第4版

 

今月、民訴判例百選第4版が出版され、大学で民訴を教える人たち(私もそうです)は、これまでの教材を変更したり、再検討したりされていることだと思う。今回の4版は、私の個人的な感想としては、かなり教材として洗練されているように感じる。
 それは1)掲載判例を厳選し数を少なくしていること、2)新判例を追わず、原理原則を考える教材として適切であれば、あえて古い判例を掲載している、ことなどに現れている。

 これらの意図は、はしがきに記載されているが、はしがきには、さらに次のような記載がある。(ちなみにはしがきは下記サイトにある)
http://www.yuhikaku.co.jp/static_files/minso_hashigaki.pdf

 現在の学生の一部には,判例を「正解」と同視し,判例を覚えることで学習を終わりとする傾向が見られるようになった。判例を梃子として,さらにその先の理論,実務を考えるという姿勢を欠くに至っているのである。また,新機軸の判例も,その先駆精神は多とするものの,理論面でよく練られているか不安を感じさせるものも皆無ではなさそうである。さらに,続百選,第2版のはしがきで新堂幸司教授が書かれたように,民事訴訟法の領域では,重要な事項のすべてが判例となるわけではない。そもそも,判例は事件処理の最終段階で回顧的に考察される評価規範が中心であり,これから手続を進めるに当たっての行為規範は判例となりにくい。また,事柄の性質上,争点証拠整理,陳述書,当事者照会等々は,判例に上がってくることがまずないと言ってよい。こう考えてみると,一部に見られる判例至上主義には,やはり限界があり反省されるべき面があろう。
 そのような留保と自戒の念を持ちつつ,しかし精選した第4版を世に問いたいというのが編者と出版社の想いである。


 この指摘は、わたしも日常的な教育実践の中で等しく共感を覚えるものであると同時に、つねづね、どう教育方法を考えればよいのか、アタマを悩ましているところである。とくに学生が判例を正解と考える傾向は、日増しに強くなっているように思う。
 しかし、これは学生の問題というより、そのような出題傾向を、新司法試験がもっている(と少なくとも学生達に信じられてしまっている)ことに原因があるのであるから、出題にあたる先生方の工夫と、それを学生に伝える工夫が、さらに必要であろう。
 ちなみに裁判官や弁護士の人たちからも、「最高裁判例があれば、それに従うしかない」という発言を聞くことがある。このような発言が間違っているとは言わない。が、その含意が、教育の中でうまく活かされていないように思うのである。

 ところで、収録判例が厳選されているが、第4版を資料として拝読して、「なるほど」と頷いた点がほかにもいくつかある。とりあえず以下。

その1 主張責任関連の判例は、第三版より増えている。これは主要事実・間接事実の区別と弁論主義の問題を原理面で教育したいということであろう。意図はよく分かる。
その2 概括的事実認定の判例が差し替えになっている。いぜんは注射脚気事件であったが、これは、いまの医学的知見からみると教えづらいところがあるように思うので、ブドウ球菌事件の方が無難であろう。このことについては、かつてこのブログで書いたことがある。
http://www.satosho.org/satosholog/2007/07/post_af8e.html

ほかにも工夫があるようであるが、いま授業準備をしていて気がついたところをメモで書いておいた。

第3版との収録判例の比較は下記にある。
http://www.yuhikaku.co.jp/static/hyakusen_minso_list.html

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2010/10/05

差別事例の研究(内閣府と千葉県)

内閣府が「障害者に対する障害を理由 とする差別事例等の調査研究」を進めているらしい。次のサイトから見ることができます。

http://www8.cao.go.jp/shougai/suishin/tyosa.html

続きを読む "差別事例の研究(内閣府と千葉県)"

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2010/10/03

歯が痛くて寝れない

歯が痛くて寝れない。ぐらぐらいしてる歯を、この一月ほど信頼している歯医者に見てもらっていたのであるが、北海道だ九州だ大阪だと飛び回り、加えて講義と事件処理に追われて、まとまった時間がとれないので仮の処理をしてもらっていたら、その歯医者さんが体調を崩して入院するので長期間の休業になってしまった。たぶん高齢のためもあるのだろう。ずいぶん長い間、御世話になった。

でもまいったなあ。どうしたものかと思案しながら仕事が立て込んでいたので我慢していたら、今朝、歯がずきずきするのであちこち電話。さすがに土曜日にはどこも入らない。
一カ所だけ、予約が空いているところがあって嫌々ながら行くことにした。なぜ嫌々か?、ここの先生、3年ほど前に歯が割れたときに、原因が分からずみてもらったのだか、歯が割れていることに気がつかなかった人なのである。
http://www.satosho.org/satosholog/2007/04/post_35a0.html
でもまあ、歯周病だと休業したお医者さんははっきり言っていたし、ずきずきするのは事実だからなんらかの処置をしてくれるだろうと期待していったのですが、判断が甘かったですね。ダメ医者は、なにをやってもダメです。
 問題の歯をみて、はれているようなので歯茎に薬を塗りましょう。痛いのであれば、痛み止めをだしましょう。以上、おわり、である。
 おいおい、これでは家に帰っても同じことではないか。いま抜かないのであれば、ぐらぐらする歯を仮に固定するぐらいをやってくれても良さそうだと思って、言ってみたら「無駄なことはしない」という返事。どうせ抜くからだ、というのがその理由なんだけど、そんなことはないわなあ、そのあいだの僕は痛みが和らぎ、食生活ができる。この人はそれがわからないらしい。ま、とにかく治療(らしきもの)を終えて、午後の弁護団会議にでたが、昼飯はなんとか食えたものの、晩飯を食う時刻になったら痛みが激しくて、とてもなにも噛めない。アイツいったい歯茎になにをぬったんだあ?。余計、痛みがひどくなった。もう、痛くて寝れない。痛いから歯医者にいったのに、よけい痛みがひどくなったのでは、それこそ無駄、いや無駄以上に有害だ。
 見たてもできないわ、治療もできないわ、説明もできないわ、三重苦の歯医者なんだなあ。なぜ、そうなるのか。この人、人間の生活が分かっていないということである。歯というものは、本人の生活のためにある。そこが分からずに歯医者をやっているから、患者の言っていることも患者の状態も、なにも分からない。そういうことだろう。

 それにしても痛い。寝れない。帰りに渡された痛み止めは、二回分。そんなものなんの役にも立たない。有害無益な歯医者に行ってしまった。

 さて、この痛みをどうするか。モノが食べれないので、腹は空いているが、寝れないから流動物、取りあえず酒を飲もう(最期はこれか・・・)

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