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2018年12月

2018/12/26

(18/12/26 Wed) 善き生

 人生65年を超えました。若い頃にこの年齢の方々を見たときは、ずいぶんいろんなことを知っている人たちで見識もあるのだろうなあ、と思ったものですが、自分がいざその年齢になってみると、ほとんど若い頃から成長をしていないなあと驚いています。それでも少しは成長しているのかなあと思うところもありますが、見識があるとは思えませんし、ましてや人生を達観しているなどとはとても思えません。
 たいへん失礼な言い方になりますが、これは私だけの話ではなくて、私と同年齢の多くの方がそう思っておられるのではないでしょうか。それはそれで良いのだと思っています。ごくごく平凡な人生です。私は京都の二条城のそばにある高校に通っていたのですが、そこの校訓が「平凡に徹せよ」というものでした。この校訓、今でも使っているかどうかは分かりません。深い意味が当時は分かりませんでしたし学校側もまったく説明をしてくれませんでしたが、この年になってなんとなく良い言葉だなあと思っています。平凡に成長を続ける、そんな人生を歩めれば良いのかなあと思っています。このブログは長らく中断していましたが、今日、書くことは、そんな老人の独白です。
 全国権利擁護支援ネットワークという団体の代表を10年ほど務めさせていただいています。その代表挨拶として次のような文章を、2015年8月1日にサイトに掲載して現在も掲載しています。http://asnet-japan.net/about/
こんな文章です----
「善き生」(Good Life)とはなにか。古代の昔から多くの人々がこのことを問い続けてきました。そして、すぐれた模範解答も幾つか提示されています。ある人は宗教を通じてそれを提示し、ある人は哲学を通じて、また、ある人は社会活動や政治活動を通じて、そして自らの生を通じて人々に解答を示してきました。
しかし、その模範解答どおりの善き生を、私達のまわりの人達が実現できているわけではありません。中には、この問いかけを真正面から見据えて、自らの「解答」を出している人もいるでしょう。しかしその解答が出せない人、あるいはまた、問いかけ自体ができない人、問いかけに興味のない人、まさに人それぞれです。しかしそれでも、すべての人がその人にとっての「善き生」を実現するお手伝いをしたい。私達の活動は、その願いを共有しております。そして私達が使う方法は、権利擁護(アドボカシー)です。
 私達は、2009年にネットワーク活動を始めました。その間、「権利擁護支援」について明確で厳密な定義を与えておりません。もちろん、その探求は続けていきますが、会員団体はそれぞれの設立目的と運用形態を持っております。権利擁護や支援についての考え方も一様ではありません。各団体の持ち味がありますので、それを尊重しております。しかし、ひとりひとりの「善き生」の実現を願うことから、次のことは守りたいと思っています。それは、人をなにかの目的のための手段にしないセンスです。ひとりひとりの人生は、その人のものです。かけがえのないその人の人生を少しでもより善きものにしていくことだけに私達は関心があります。ブーバーの「我・汝」関係、あるいはメイヤロフの専心ケアの感覚と言って良いかもしれません。幸いにして多くの団体にネットワークにご加入を頂いておりますが、加入審査にあたってはこのことに留意しております。
しかし、センスは、書物や文字情報だけでは「育む」ことも「共有すること」も難しい面があります。実践知と呼ばれるものだからです。そこで私達は、団体間の日常的な交流を重視しております。まだまだ活動は充分とは思えませんが、これからも一歩一歩、こうしたセンスに磨きをかけるために交流を深めていきたいと思います。
みなさま、よろしくお願い申し上げます。2015年8月1日
代表 佐藤彰一 
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 ずいぶん気張った書きようですが、人はみな自分の人生を良きものにしたいと思っていることが、前提にあります。なにが良きものなのかはもちろん人それぞれで一致しないでしょう。しかし、そのことを理由にそれぞれの善き生をまったく個人の問題に委ねてしまうことは、あなたはあなたの人生を送れば良いので私はそこに関わらない、だからあなたも私に関わらないでほしい、そのような意味で人間関係を遮断した人間観・社会観を前提にしているように思います。近代の西洋思想はそのようなものです。しかし、これに対する異議申立が最近西洋でもでていることもよく知られている話しです。我々、非西洋社会の人間は、言語化されて精錬された西洋の知識を学んでいますが、西洋でも実践知としては、違うものがあるのではないか、そこをみながら、人間と社会を見ている人たちいるのではないかと思います。その人達の活動をどう表現すればいいのか、良くわかりません。人類学が人間学だ、生活学とかいろんな呼び方をしたところで、それってなに、と言われて明確な答えができない状態です。しかし、いろんな分野で、この挨拶に書いたようなことを思って毎日の生を営み続けている人たちがいるのではないかと思っています。
 
 まだまだ勉強が足りません。知らないことだらけです。私がこの活動に興味を持ち始めたのは2000年のころです。今年の6月に発刊した「権利擁護がわかる意思決定支援」(ミネルヴァ書房)でも定義を含めて、いくつかの実践知の成果を公表しています。
 この活動は、理論的な側面も有しています。単なる感情的な活動、その場かぎりのものではなりません。日本福祉大学権利擁護研究センターでこの数年にわたる研究会は、福祉と法にまたがる学際的なものであり、かつ研究者と実践者の両方が参加するまさに実践知の言語化を行う格好の場所でした。まだまだ研究活動は続くでしょう。そうした私の15年に渡る実践知に関わる活動をどうまとめればいいのか、実は65歳にしてなお迷っています。まさに、少年老いやすく学なりがたし。

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